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「時を越えた想い」2013,10,27東京コミックシティ発行
珀黎翔×汀夕鈴
子供時代の陛下はという夕鈴の問いに
普通の子供だったよと珀黎翔は笑顔で答える。
しかしその子供時代は…
時を越えた想い
******
「おや、いい香りだな、我が妃よ」
そう言いながら後宮の夕鈴の居間に入ってきたのは珀黎翔だった。端正な面差しをした珀黎翔はこの国の若き王である。王の執務服がよく似合っている。その腰に携えた実用的な長剣はこの部屋には似つかわしくないものだったが、それをいぶかしく思う者はこの王宮には一人もいない。
珀黎翔に続いて入ってきたのは李順である。こちらは優しげな面差しに眼鏡をかけていていかにも文官という容姿だが本来後宮に王以外の男が足を踏み入れることはない。李順は例外で王宮内では珀黎翔の信頼厚い側近であり、後宮の妃の後見を直々に任ぜられていることも知れ渡っている。
空は秋晴れに澄み渡り青い色の中に白い雲は一点も見えない。大きく開け放した窓からは心地よい風が吹き込んできて時折部屋のそこかしこに飾られた花を揺らす。
ここは大国白陽国の後宮、王の寵愛をほしいままにするたった一人の妃の居間だった。
「さすがに王宮のお庭が広くて」
夕鈴はにっこりと微笑みかけた。
金木犀の香りが部屋の中に立ちこめている。あたりを取り囲んでいた女官たちが素早く手作業をとりまとめ音もなく部屋の外へと退室していった。
「どうぞお座りください、陛下。李順さんも」
夕鈴は椅子を勧めると自分はいつもの小卓へと歩み寄った。珀黎翔と李順のためにお茶をいれ始める。
「ああ。これは朝貢国がこの前持ってきた茶葉ですね」
遠慮なく腰を下ろしながら李順がつぶやく。珀黎翔も李順もそれぞれ後宮では定位置があって珀黎翔は長椅子に、そして李順は一人掛けの椅子に腰を下ろした。
「ええ。後宮にもとお裾分けいただいたので先程茶葉をあけたんです」
「ああ、いいな」
三人しかいなかった部屋の中に四人めの声が響いたが誰一人驚いた様子を見せなかった。
夕鈴は茶器を盆に乗せながら振り返る。
「きっとくると思って用意しておいたわ、浩大」
その視線の先、窓側の床に目立たない服に身を包んだ浩大がにっこりと立っていた。身軽に部屋を横切り、さっと盆の上の茶器を奪い取る。こくんと一口飲んで浩大は笑顔でうなずいた。
「本当においしいよな、お妃ちゃんがいれたお茶は」
そう言いながら浩大はちらりと珀黎翔と李順に視線を向けた。少し意味ありげなそのまなざし。何か気にかかったものの、その意味を夕鈴が理解することはなかった。
「いただこうか、夕鈴」
珀黎翔が笑顔で手を伸ばしてきたので一瞬感じた違和感はぬぐい去られてしまう。
「はいどうぞ、李順さんも」
「ありがとうございます」
李順もまた笑顔で茶器を受け取った。
王の寵臣と寵姫、そして王の信頼厚い隠密が一同に介したという光景だが実はそこには複雑に絡み合った裏がある。
夕鈴は珀黎翔の本物の妃ではない。次々と持ち込まれる縁談をよけるために雇われた臨時花嫁。短期で終わるはずだったバイトは夕鈴が王宮の備品を壊してしまったことから長引いている。
だがそれもまた裏があった。夕鈴の愛らしさ、裏のない笑顔、その向けられる好意に珀黎翔は夕鈴を本当に愛した。同時に珀黎翔の側近である李順も、その信頼厚い隠密である浩大も夕鈴を妃としてふさわしいと考え、そう遇するようになっていた。
だがまだ夕鈴に本当のことはいえない。狼陛下と呼ばれるその冷酷非情なところもまた己に存在するとわかっている珀黎翔は夕鈴が本当に自分を受け入れてくれるまでただ待つつもりだった。
今は夕鈴とともに過ごす時間を大切にしていたのだった。
「これは懐かしいな。金木犀の香りか」
「おいやでなかったら先程香り袋をつくりましたので陛下に…と」
「ありがとう。いただくよ」
にっこりと珀黎翔が言う。
李順は小さくため息をついた。
「李順さん…?。もちろん李順さんの分も作っていますけれど…?」
「夕鈴殿…」
ああこれはお説教モードが始まるなということがもろわかりの声だった。
夕鈴が身をすくめるまもなく李順が口を開いた。
「王の寵姫の立場というのはきわめて微妙なものです。夕鈴殿は貴族の実家をもちませんが、というよりも私がいわゆる後見ですが、このような匂い袋をつくって王以外の者に渡すということはまったく歓迎しません。それは寵姫の下賜品ということになり宮中の勢力図に影響を及ぼします」
「そ…そうなんですか」
「そうですとも。まして香りとなれば誰にでも夕鈴殿から渡されたということがわかってしまいますし、百歩譲って陛下にお渡しすることはよくても、このように遠くまでよく香る品はきわめて危険なものなのです。もしかして、浩大にもつくっていませんか?」
「それは…つくりましたけれど」
夕鈴は視線を浩大へとむけた。
「もちろん浩大が隠密の仕事があるってわかっているけれど、今は王宮で陛下のご命令を待機中なのよね?。この金木犀はあんまり長くにおいはもたないから大丈夫かなとおもったの」
「…ありがとう、お妃ちゃん」
浩大はにこにことうなずいた。
「でも気持ちだけいただいておこうかな。いつ俺は陛下に派遣されるかわからないからね。匂い袋はやっぱり隠密活動に差し支えそうだから。でも、俺のためにつくってくれたのは本当にうれしいよ、お妃ちゃん」
「…うん。…でも次からは気をつけるわ」
夕鈴は目を瞬いた。李順がうなずく。
「浩大は特殊事情ですが、贈り物の件は今後は気をつけてください。すでにあなたは後宮のたった一人の妃なんです。いつ足もとをすくわれるかもしれません。夕鈴殿が品物をもらわれる場合は基本的にすべて私を通すことになっていますがあなたが誰かに物をあげるのは慎重に」
「わかりました」
夕鈴はおとなしく答えた。宮中の礼儀作法はいろいろ難しく、夕鈴はこう言うときの李順の言葉は全面的に聞くことにしていた。
「でも僕はいただくよ」
珀黎翔が口を挟む。
「いい香りだ。李順ももらっておくといい。夕鈴への寵愛が薄れていないという証にもなる」
「そうですね。…夕鈴殿、私にもいただいてよろしいですか?」
「それはもちろんです。…もらってくれるのはうれしいです」
夕鈴はうなずいた。
「それにしても…本当に宮中って難しいです。ただ笑顔でいればいい後宮の花のわりに学ぶことも多くて」
「陛下の暗殺計画も未だやまずですからね」
李順がため息をつく。
「…李順」
珀黎翔が静かに言ったが思わず夕鈴はびくっと身震いした。
「言うな。夕鈴を怖がらせるだろう」
「そうはおっしゃられましても。夕鈴殿にも情報を共有しておきたいと思うところですよ。寵姫の後見の立場としては」
「…何かあったんですか?」
夕鈴の言葉に珀黎翔はため息をついた。
「いや、夕鈴が心配するようなことはないよ。犯人もつかまったし。ちょっと襲われただけ」
「知りませんでした」
「さっきのことだからね」
「陛下は簡単に相手を退けられましたから大丈夫ですよ、夕鈴殿」
笑顔で李順が口を挟んできて夕鈴はうなずいた。
「陛下がご無事でよかったです」
「お妃ちゃん、心配することないよ」
浩大がお茶を飲み干した後、お菓子へとこちらも遠慮なく手を伸ばしながら言った。
「陛下は小さい頃から敵に襲われ慣れているから。こういうの平気なんだよな」
「…そういうのは慣れないと思うわ」
「どうだろう。確かに僕は慣れているのかもしれないな」
珀黎翔の口調がなめらかに私から僕へと変わる。
「陛下って…どういう子供だったんですか?」
ふと不思議になって夕鈴は尋ねた。
「小さい頃から襲われてきて、でも陛下がちゃんと生きていらっしゃるということは…」
「まあ李順にもだいぶ助けてもらったし、浩大にも助けてもらったな」
「俺が陛下の護衛に入ったのは…あの時からだったような気がするけれど?」
「あの…時…?」
「まあ。それはすぎたことだよ。…夕鈴、僕のp子供時代と言えばね、まったくの普通。ごくごく普通の子供だった」
「昔から、王になられるのなら陛下と私は心に決めておりましたが?」
李順の言葉に珀黎翔は困ったように手を振る。
「お前たち、私がせっかく話を終わらせようとしているのになんだ」
「いや、お妃ちゃんの御下問ですから」
浩大が笑って答える。
「違うから!、浩大、私は臨時花嫁、お妃様じゃないから!」
「お妃ちゃんもしぶとく抵抗するねえ」
「まあそれでこそ夕鈴殿でしょう。それにお妃教育も
まだまだですから」
「さすが鬼上司」
浩大と李順の会話で話はうやむやになってしまったのだった。
******
夕鈴を後宮に残し、珀黎翔と李順は連れだって王宮へと戻ってきた。広い王宮はいくつもの建物が回廊でつながれている。
池や山、そして小川さえも流れる王宮の庭は大変広い。目立たないように要所要所には警備の兵も立っているのだが何分広いということもあり、秘密の話をするにはこのように吹き抜けて誰か接近してきてもすぐにわかる場所が意外にも適しているのだ。
ふと珀黎翔は足を止めた。
「…浩大」
「お側に」
間髪入れぬ声があった。珀黎翔につきしたがっていた李順がいぶかしげに顔を上げる。
「どこです?」
「ここ」
その声は二人の少し離れた回廊の柱の影から聞こえてきた。とけ込むように柱の影に身を潜めて浩大が立っていた。
先に尋ねたのは李順である。
「…何か不測の事態でも?」
それは先程浩大が夕鈴より先にお茶を飲んだことに起因する。それが毒味であることをあの場に居合わせた夕鈴以外の全員がわかっていた。
「陛下の暗殺未遂の件で少し動きがあるからね。ちょうど後宮に忍び込んできた敵を撃退したところだったからさ。そいつがお妃ちゃんのお茶に毒を入れていたらまずいってあの場で割って入ったわけ」
「…そうだろうな。お前からは血の匂いがした」
珀黎翔がつぶやいた。夕鈴の前では決して見せない冷ややかな声だった。
「金木犀の香りのおかげで夕鈴は気づかなかったようだが」
「そうでしたね」
浩大もうなずく。
「ちょっと失敗したかなと思ったけれど、お妃ちゃんが金木犀の匂い袋を作っていてくれてたすかった。ああ、いっとくけど。俺は怪我をしていないからね。敵がなかなかしぶとくてさ。ちょっとあいつがぼろぼろになっただけ」
「わかっている」
珀黎翔は口元をわずかにゆがめた。
「そうだろうなと思っていた」
「できれば聞き出してからとおもったんだけれどさ。相手の自白をとっていたらお妃ちゃんの毒味が間に合わないかもって、そいつは警備兵に任せたんだよ。あとで李順のところに報告が回ると思うけれど」
「わかりました」
李順はうなずいた。
「そちらは任せてください」
そういって李順は浩大へ視線を向けた。
「先程はあなたを引き合いにだして匂い袋の件で夕鈴殿を牽制してしまいました。すみませんね」
「いいって」
浩大は笑顔でうなずいた。
「実際、俺は香り物は御法度だからね。…でも本当は陛下に匂い袋がわたるのを警戒してたんだよな」
「夕鈴殿に作るなというのも気の毒ですし…しかし、陛下」
李順は視線を珀黎翔へと向けた。
「香りに紛れて毒を盛られることを避けて、匂い袋はいっさい使われないと承知していたのですが今回のものはよろしいのですか?」
「香りが薄れるまでは使うつもりだ。それだけ短い期間であれば香りに紛れて毒を盛ることもできまい。それにせっかく夕鈴が作ってくれたのだ。受け取るのが夫の役目というものだろう」
「…まあそれについては異論があるところでしょうが、そういうことでしたらまあ大丈夫でしょう。夕鈴殿の性格から考えても、浩大だけ渡さないというのは悪いなと思うでしょうし、香りのある贈り物はなくなるでしょうからね」
しばらく話はとぎれた。
ややあって珀黎翔が考え込みながら視線を庭先へと送った。
「夕鈴の護衛はしばらく強化することにしよう」
珀黎翔はつぶやいた。
「忍び込んできた賊というのが気になる」
浩大から李順に尋問がゆだねられた賊の運命は珀黎翔の関心事ではなかった。
「その忍び込んできた賊に繋がる相手が私をターゲットにしているのならいいが、万一夕鈴にも被害が及ぶようでは困る」
「それについちゃ李順の報告まちになるけど」
浩大は肩をすくめた。
「もしも急ぎなら、そいつの尋問はもう一度俺が担当するけど?」
一度こいつを警吏には引き渡したけれどねと浩大は付け加えた。一度考え込み珀黎翔は首を振った。
「…いやそれは李順に任せる。お前は夕鈴の護衛に当たれ」
「承知しました」
浩大はうなずいた。そしてあの黒くて大きな瞳を輝かせた。
「それにしてもさ。さっきは思わず笑っちゃったよ」
「…何をだ」
いぶかしげに珀黎翔は眉を上げた。それへ浩大が笑ってみせる。
「陛下が普通の子供だって?。あり得ないよね」
「まったくです」
浩大の言葉に李順が賛成する。
「私も笑いをかみ殺すのが大変でしたよ、陛下」
「時を越えた想い」2013,10,27東京コミックシティ発行
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