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「天に星、地に花、人に愛」再録集60に再録2014,1,26東京コミックシティ発行
珀黎翔×汀夕鈴
珀黎翔の廃嫡を示す書類が出てきた。
新たな王の後継者として王宮に連れてこられたのは…
王位を追われる者と追う者として出会った珀黎翔と夕鈴は…
天に星、地に花、人に愛
    ******

「まさかこのようなことになろうとは…」
長い沈黙の後でうめくように言ったのは李順だった。
「そうだな。私もこんなことになるとは思いもしなかった」
そう答えたのは珀黎翔である。
若く力にあふれ中興の大国白陽国の新しい王としてその名を知られている珀黎翔はその涼やかなまなざしを李順へと向けた。李順の声は苦悩に満ちていたが珀黎翔は淡々とした表情であり声音だった。
ここは大国白陽国の王宮だった。前王からの代替わりの争乱を自ら軍を率いて制圧し、戦場の鬼神、冷酷非情とうたわれた珀黎翔が治める国である。
「まあ…陥れられたって俺は思っているけれど?」
そう言ったのは王宮の王の居間の窓際の床の上に座り込んでいた浩大だった。目立たない服装、一見して高官とわかる李順と違いこの部屋には似つかわしくないその座り方は浩大の素性を物語るものである。浩大は有能な者しか傍には置かぬという珀黎翔の直属の隠密だった。
「国内が平和になっていまさら陛下の王位継承問題が持ち上がるなんてさ。陥れられた以外ないじゃん」
「まあ…そうかもしれないし、そうではないかもしれない」
珀黎翔は己を信じてついてきた気心の知れた側近であり、信頼する隠密である二人にうなずいて見せた。
「何をそのように冷静でいらっしゃるんですか」
李順は珀黎翔を見つめた。冷静沈着で知られていた李順は今憤慨する気持ちを隠しもしなかった。
「このままでは陛下は処刑されてしまう可能性さえもあるというのに。それに浩大も浩大ですよ。あなたもどうして怒らないんです。陛下が陥れられたと思っているのはあなたも同じでしょう」
李順の言葉に浩大が応える前に珀黎翔はうなずいてみせた。
「まあそう怒ることもない。なにも王位継承闘争に敗れたからといって今すぐに追放されると決まったことではないし」
珀黎翔は落ち着いた表情を崩すことなく、いやどちらかといえば李順をなだめるように答える。
「さすがにあの書類が出てきたからすぐに私を処刑…という方向にはいかないだろうな」
「うん。それは安心していいと思うよ」
浩大は李順へと視線を向けた。浩大はこの場所に集まる前に王宮で討議している会議の様子を確かめてきていた。
「さっき様子を見てきた感じじゃ…やつらも陛下のことをどうしていいのか結論が出ていないようだったからね」
「…本当は浩大とともに陛下は王宮から逃れていただいた方がよろしいのですが…」
「それはできない」
李順の言葉に珀黎翔はためらいのない口調ではっきりと答えた。
「今私が逃げ出せば、彼らの訴追を認めたことになる。正統な王ではなかったと認めるわけにはいかない。だが、たとえ彼らの言葉を退けてあの書類の存在は知らなかったと言ったとしても私が一度逃げ出してしまえばもう二度と王座に戻ることはできないだろう」
「……」
李順は口元を引き結んだ。珀黎翔の言う言葉が真実だとはわかっていたがそれを受け入れるにはあまりにも珀黎翔の現状は追い詰められていることが李順にはわかっていた。
「…へええ。それじゃやっぱり王座に戻るつもりがあるんだ、陛下」
そう言ったのは浩大だった。
浩大は李順とは別の視点から今回の騒動を見ている。浩大はにやりと珀黎翔を見上げた。
「その書類の真偽が決着するまでは王座にいるわけにはいかないと自ら王座を降りたっていうのにさ」
「当たり前だろう」
珀黎翔は肩をすくめる。
「この国で私は王になるために努力を重ねてきた。そして私が確かに王の子であることだけは彼らも認めざるを得ない。突然父上の廃嫡するという書面が出てきたといわれても納得できないな」
「……」
李順は再びため息をついた。
国内が一応の安定を見て珀黎翔の統治の下国内産業も活性化し貿易も奨励されて落ち着いてきた今になって白陽国を揺るがすような大問題が持ち上がったのである。
珀黎翔は白陽国王家の直系男子であり、兄王の退位後王位を継いで王となった。だが今になって珀黎翔を廃嫡するという父王の書面が出てきたのである。
「あの書類は…確かに本物かもしれないからな」
珀黎翔は苦笑する。
「何しろ母上はご正妃に疎まれていた。母は父王の寵愛を一身に受けていたのだ。ご正妃が私の廃嫡を父に願い出たという可能性はゼロではない」
それが今回の廃嫡の書類の信憑性を裏付ける理由の一つだった。
珀黎翔自身でさえその書類が偽物だと断ずることはできなかったのだ。珀黎翔の父王のご正妃は珀黎翔を恐れており、己の正妃としての立場と権限をもって珀黎翔の廃嫡を王に迫ったという可能性は確かにあり得た。
「…王の継承関係では陛下のお父上もしっかりしていらしたと思っていたのですが…」
李順はうなるように言う。
「まあ仕方がない。…もしも書面が本物であり、そのうえ次の王が私より王にふさわしいというのなら私は黙って身を引くしかないと思うが…」
それは処刑をも受け入れるということを意味していたので李順は眉をひそめたが、珀黎翔は淡々と言葉を続けた。
「弟は…宮中の争いを切り抜けられるとも思えぬし…何より、弟より王位継承権が上だという妹が現れては…さすがにどう対処したものかわからないところだ」
実は珀黎翔が未だに王宮にいるのはその新たに降ってわいた血族、王の血を引くという異母妹の存在がある。廃嫡の書類と時を同じくして現れた王位継承権を持つ王女の存在。さすがに王宮内に激震が走った。誰一人後見についてはいない市井に生きていた王女である。
「妹君のことですが…」
李順は一度浩大と目を見交わした。
「確かに今回の騒動の発端となった汀夕鈴殿のご生母は王宮に下女として上がったこともあり、その時に父王陛下のお手がついたということはあり得ない話ではありませんが…そんなことが本当にあり得ましょうか?」
「正直…あり得ないだろう」
珀黎翔は苦笑した。
「この少女と私はまだ会っていないが…もしも本当にただ利用されているだけの娘であったのなら…彼女はすでに兄によって暗殺されているはずだ。本当に王家の血を引いているのならば」
淡々とした珀黎翔の口調と裏腹にその内容はひどく殺伐としたものだったが李順も浩大も当たり前のことを聞いているといった表情で珀黎翔の言葉にうなずいていた。
「おっしゃる通りです」
李順は同意した。珀黎翔が何度となく刺客を差し向けられたこと、そして珀黎翔よりはかなり若い弟にはすでに貴族の後見もついていて守られてきたが同じく暗殺者が何回か差し向けられたことを李順は知っていた。
「で、いかがされますか、陛下」
李順は珀黎翔へと視線を向けた。
「やつらの罠にはまりこのまま廃嫡を受け入れるというおつもりは陛下にはないとはわかりましたが…ではどうされます?」
「おそらく…その少女は今回の捨て駒だな」
珀黎翔は考え込みながら言った。まだその少女を見たこともない。廃嫡の書類、そして新しい王族の登場はさしもの珀黎翔も事前につかむことのできなかった情報であり、その少女の素性を確かめることもできなかった。
「私は…確かに敵も多いが味方も多い」
珀黎翔の言葉に李順は眼鏡を押し上げた。幾分そのまなざしに鋭さが加わる。
「おっしゃるとおりです。特に軍部の者たちはともに内乱を制するべく戦場に出て戦った陛下を信奉しております」
珀黎翔に心髄している軍部の者たちがこの突然現れた王女汀夕鈴によって珀黎翔が王から追われさらには夕鈴の王位継承を脅かす存在として処刑されてしまうと思った時どのような行動にでるのか珀黎翔のみならず李順にも容易に想像がついた。
「……」
珀黎翔は口元を引き結んでなにも言わなかった。
「つまり…その夕鈴ちゃんが軍部によって暗殺される可能性があるって陛下は考えているんだ?」
ずばりと言ったのは浩大だった。
「まあ…そういうことになるだろうな」
珀黎翔は肩をすくめる。
「でもさ、その女の子が陛下の敵だったら…別にいいんじゃねえの?。軍部に暗殺させちゃえば。いや、敵でなくて本物の妹だとしてもさ。陛下が指示して暗殺させたわけじゃないし」
もしも第三者が聞いていたらさすがに隠密は人の心がない、もしかすると罪もない少女が殺されるのを見殺しにするとはと眉をひそめただろうが、そう言った浩大は表情も変えずに珀黎翔へと視線を注いでいた。
「……」
やはり珀黎翔は口を開かなかったが代わりに李順が言う。
「浩大、そう陛下を試すものではありませんよ」
李順はため息をつきながら浩大をたしなめた。
「陛下が噂されるような狼陛下の…冷酷非情なお心をもつだけではないことはあなたも私もよく承知しているところでしょう」
「李順こそ甘いんじゃねえの?」
浩大は肩をすくめる。
黒く大きな瞳を輝かせて浩大は珀黎翔へ向かって方をしゃくって見せた。
「陛下は甘くはないぜ?。それがこの国のため必要だと思ったら…己の心を押し殺して相手を手にかけることぐらい簡単にやってのけるよ」
たとえそれが見たこともない本物の妹だとしてもねと浩大は締めくくった。
「いや、浩大の言う通りだが…だがさすがに他の手がすべて尽きた時だろうな。私がそのような人の道にも劣る行為をするとすれば」
「そのような事態にならないよう我々としては力を尽くすだけですが」
李順は目を瞬いて視線を珀黎翔へと戻した。
「だがまずは…本人と会うところからだな」
珀黎翔はそうつぶやいた。
「この少女が本物なのか偽物なのか。その調査は…」
「俺が」
すっと浩大の表情が鋭くなった。先程まで珀黎翔をたきつけていたのはやはり本心ではなかったのだとわかるほど、今の浩大のまなざしは鋭かった。珀黎翔とともに戦場を駆け抜け、様々な危険をを切り抜けてきた実力ナンバーワンの隠密のまなざしである。
「いや。浩大は王宮にいてもらった方がいいだろう。何かあったときに手足のように動ける信頼の置ける者が私には必要になるだろう」
「陛下に信じていただき光栄です」
先程までの軽い口調は影を潜めていた。浩大はすっと姿勢を正すと膝をついて一礼した。
「いつも言っていることだが」
珀黎翔は苦笑する。
「お前たちを信じられないようでは…私はこの国を統治していくことはできないだろう」
そして珀黎翔は視線を李順へと向けた。
「浩大の他に彼女の素性を探ることができる者を見つけられるか?」
「そうですね」
李順は考え込んだ。
「それは正直なかなか難しいところです。ご承知のようにこの件は完全に秘密裏に行わなければならない。信頼が置けてそれなりに調査探索能力の高いもの…ああ、いました」
李順は視線を珀黎翔へと戻した。
「徐克右はいかがでしょうか」
「徐か」
珀黎翔は目を瞬いた。
「いいだろう。あいつは下町での探索にも長けている。…では徐克右に彼女…汀夕鈴の素性を探らせよう」
「承知しました」
李順は一礼した。
「こちらはすぐにかからせます。…軍部とのやりとりは…」
「無理だろうな。おそらく私にはもう監視がついていると思う」
「その通りだよ、陛下」
浩大がうなずいた。ちらりと窓の外へ視線を投げる。
「この部屋の周りにはもう隠密が張り付いている。…まあ俺は見とがめられずに出て行けると思うけれど、李順は無理だろ。今後李順だって見張られるぜ。公にかあるいは秘密裏に…どうする?」
少し考え込み李順は顔をあげた。
「浩大、あなたは徐克右と顔見知りでしたね」
「そりゃあね。辺境軍で陛下と一緒に動いた時にね。あいつは軍人としちゃ、なかなかいい腕を持っていたよな」
酒もいける口だったね。あんたたち二人はウワバミだからさと浩大は付け加えた。
「酒ならあなたも強いでしょうが」
あっさりと李順は答えて眼鏡を押し上げた。
「では徐克右とのつなぎはあなたにお願いします」
「いいけど…あいつが俺を信じるかな?」
「信じますとも」
李順はうなずいた。
「宮中の動きは徐克右にも伝わっているはず。そしてそこに辺境軍で苦楽を共にしたあなたが現れてこの王女…汀夕鈴殿の素性を確かめろと言えば、目端の利いた者であればそれが陛下の御為であることぐらいわかるでしょう。あの男にそれぐらいの才覚はあったはず」
その程度の才覚もなければ頼むに足りないということですと李順は締めくくった。
「飲み仲間に厳しい裁定だね」
浩大は笑った。
「それじゃ俺は徐克右にその件を伝えたら…戻ってくるわ」
「この後の接触はなるべく他の者に知られないように」
珀黎翔が口を開いた。そしてもう一度窓の外青く晴れ渡った空へと視線を投げた。突然降ってわいたこの王位継承問題を切り抜けなければこの白陽国に再び内乱の危機が勃発することを珀黎翔はよくわかっていた。そしてその内乱が民に多くの負担をもたらすだろうことも。
「場合によっては…彼女を守るのではなく秘密裏に消えてもらう可能性もあるのだからな」
その珀黎翔の口調は間違いなく狼陛下のものだった。
「……」
ぞくっと李順は身震いした。
「承知しました」
そう答えて李順が視線を浩大へと向けた時はもう、浩大の姿はその場になかったのだった。


    ******

いったい何が自分に起こっているのかと夕鈴は馬車を降りたところで立ちすくんだ。自分がこの場所に足を踏み入れる事など起こりえない。
だが夕鈴の目の前には長々と続く白い玉石を敷き詰めた庭と朱塗りの建物がそびえ立っていた。その建物の上には冬晴れの青い空が広がっていたがその空の色に目を送る余裕は夕鈴にはなかった。
馬車は王宮の正門からこの階段のすぐ下までまっすぐに乗り付けてきたのだった。
呆然と回廊へと続く階を見上げ、夕鈴は動けなかった。あたりに控えた女官も何人も連なる侍官たちもだれ一人言葉を発しない。
夕鈴が動かなければだれも何も言えないのだ。そうわかったものの夕鈴もまた身のおきようのない呆然とした気持ちのまま立ちすくんでいた。
「…どうぞお進みください、王女殿下」
小声でささやいたのは夕鈴をこの場所へと強引に連れ去った貴族の声だろうか。
「…だって…」
ふるえる声で夕鈴はつぶやき首を振った。
「私は…ここを上がれるような立場じゃないのに」
「何をおっしゃいます」
小声で、しかしいらだちを隠しきれないまま夕鈴をここへとつれてきた男がささやく。
「王女殿下は隠れようもなくこの国の王位継承者でいらっしゃいます。王位を継いだ後は女王となりこの国の絶対の存在となられる方。だれに遠慮する必要がございましようか」
そのだれに遠慮する必要があろうかという言葉の意味は下町の夕鈴の実家で聞かせられていた。乱れに乱れたこの国を前王から継ぎ、自ら軍を率いてこの国を制定して国に平和をもたらした狼陛下。夕鈴にとって兄に当たる存在だということも信じられないが、さらに信じられないのはその王が正当な王ではなく夕鈴こそがこの国の正当な王だということだった。
「だって…私は…」
夕鈴は首をふった。足がふるえてどうしても一歩を踏み出すことができない。
「早くお進みください。王女殿下の本来いられるべき場所でございます」
「違うわ…」
かすれた声で夕鈴はうめいた。
この場にはこんなにも多くの女官や侍官がいる。だがだれ一人夕鈴の恐怖を理解する者はいなかった。
その時だった。
「…夕鈴」
張りのある声が聞こえてきて夕鈴ははっと顔を上げた。響きのいい声だった。あたりの空気が一瞬にして張りつめる。夕鈴が見上げた回廊の上に青年が一人立っていた。すらりとした長身の若者だ。身にまとっているのは王の執務服だった。
あたりを取り囲む誰の口から漏れた声だったのだろう。
「…王…陛下…」
「…っ!」
夕鈴は呆然と相手を見上げた。
王陛下と呼ばれるからには相手がこの国の王であり、内乱に疲弊したこの国を救った狼陛下なのだ。
その顔を直視できず夕鈴は身を震わせた。
この人が珀黎翔。夕鈴の兄という存在だと聞かされて王位を失う存在だと聞かせられて夕鈴がこの王宮へ否応なしに連れてこられる原因となった人なのか。
「…なぜこの場に…!」
うなるように声をあげたのは夕鈴をこの王宮へとつれてきた貴族だった。
「王女殿下に手をかけるつもりか…!」
その言葉にはっとあたりの気配がこわばる。
珀黎翔は腰に帯剣していた。王が王宮で身につけるにはふさわしくない実用的な長剣だった。
珀黎翔の顔を直視できないまま夕鈴は震えていた。逃げ出すことも相手を退けることもともにできない。
どうして珀黎翔はこの場に現れたのだろう。そんな実用的な剣を携えているのはなぜ。
まさかそれで夕鈴を切って捨てようというのだろうか。珀黎翔が王として退位させられても夕鈴が亡くなれば王位を継ぐだけの血の濃さを持つのはまだ年の幼い珀黎翔の弟王子がいるだけだという。
だから一刻も早く王宮に入らなければ夕鈴は殺されてしまうかもしれないと聞かせられて、夕鈴の父と弟青慎は一も二もなくうなずくしかなかったのだ。
「急に王宮に連れてこられ、さぞ不安だろうな、夕鈴」
珀黎翔は声を上げた貴族へ視線を向けることはなかった。まっすぐに夕鈴を見つめていた。
その声にようやく夕鈴は珀黎翔を見上げることができた。そして思わず目を見開いた。
何という端正な美貌だろう。通った鼻筋も形のいい口元も高貴の身であることを誰にも納得させるものがあった。神をかたどったという名工の彫刻さながらの美貌だった。そして珀黎翔が彫刻ではなく生きた人間であることを明かしていたのは珀黎翔の持つ目を奪われずにはいられないその存在感だった
「おいで。後宮に案内しよう」
優しい声だった。そんな風に言ってくれるとはゆめゆめ思わなかった言葉だった。
「…陛下」
思わず夕鈴はそうつぶやいていた。
「それは…」
珀黎翔は少し困ったようにほほえんだ。
「もう私は陛下ではない…ということになっているのだが。まあいい。おいで、夕鈴」
回廊の上から差し出された手。まるで引き寄せられるように体が動いていた。夕鈴は階段をあがり珀黎翔へと近づいた。差し出された手に手を伸ばす。ぐっと握られたその手は暖かく、そして力強かった。
「我が妹を無事に王宮までご苦労だった。下がってよいぞ」
珀黎翔の言葉にかっと貴族の男は顔に血を上らせる。
「…っ!王女殿下は…!私がお連れしたのだ」
珀黎翔の言葉はその相手の気負いをいなすものだった。
「だからご苦労だったと言っている。夕鈴も疲れているだろう。お披露目等は宰相がよきに取りはからう。皆、下がるがいい」
そう言って珀黎翔は夕鈴の肩を抱き抱えるように引き寄せた。そして回廊を歩き始めたのだった。

    ******

長い回廊を歩いていく最中珀黎翔は夕鈴の肩を抱き寄せたまま離すことはなかった。
途中途中には兵士や侍官の姿が見えたが、途中で珀黎翔を見ると皆膝を付き深く頭を下げて道を譲った。
本物の王なのだと思うだけで夕鈴は体がふるえる気がする。夕鈴だって彼らと同じだ。珀黎翔の前で膝を付き、王が通り過ぎるのをただただ待つだけの立場だ。
「夕鈴には急なことでごめんね」
夕鈴の肩を抱き抱えるようにして歩きながらふと珀黎翔がそうつぶやいた。
「…え?」
その声に夕鈴は思わず自分を抱き寄せる珀黎翔を見上げた。珀黎翔は視線を正面に向けたままゆっくりとささやいた。夕鈴に視線を向けないのは夕鈴を怖がらせないためだとどこかで夕鈴は感じていた。
「こんなことに巻き込んでしまって。…本当にびっくりしたでしょう?」
穏やかで優しい声だった。
「え…ええ…」
うなずいて、そして不意に夕鈴は目が潤むのを感じた。ずっと緊張していたのだと思い当たる前に不意に目から透明な滴がこぼれ出た。
「あ…あの」
片手で目をこする。
「ごめんなさい。私…」
「…夕鈴」
その声とともに不意に優しく抱き寄せられ夕鈴はわずかに目を見開いた。
「陛下…?」
「いきなり王の妹だと言われ、その上親兄弟からも引き離されて王宮へ連れてこられたんだ。怖くなって当然だよ。本当にごめんね」
「陛下…」
抱き寄せられた暖かな胸。その胸元に頬を預けるともう夕鈴は我慢できなかった。
夕鈴は声を押し殺すようにして涙を流した。その間回廊を誰かが通りかかったかもしれないがもう人目を気遣う余裕もなかった。
でも涙もやがて尽きる。いつまでも泣いていることはできないとどこかで自分にささやく声がする。
しゃくりあげる衝動がやんだのを見計らったように珀黎翔が夕鈴をそっと胸の中から解放した。
「あまり後宮に行くのが遅くなると女官長がやきもきするだろうな」
苦笑する声で珀黎翔がささやいた。
「まして狼陛下と言われる僕だし、ぽっと現れた妹を回廊の途中で手打ちにしたのではないかと思っていましたと言われるのも業腹というもの。歩ける?、夕鈴」
「はい。あの、ありがとうございました」
そう言ってしっかりと夕鈴は顔を上げた。
「いけます。…すみません、陛下。私のせいで陛下が悪し様に言われるようなことになっては申し訳ないです」
「…それぐらいで揺らぐような陛下ではありませんので大丈夫ですよ、王女殿下」
「…っ!」
二人しかいないと思っていた場所で声が聞こえて夕鈴はびくっと身をふるわせた。
「夕鈴が驚くだろう李順」
珀黎翔が夕鈴の肩を抱き寄せたまま相手をとがめるように言う。
「…李順…さん…?」
振り返った夕鈴の視線の先にこちらも長身の眼鏡をかけた青年が立っていた。
「夕鈴、こいつは李順だ」
「…汀夕鈴と申します」
珀黎翔の口調からして相手が珀黎翔にとって親しい間柄なのだろうとわかる。王に対して親しい相手という言い方が正しいのかどうかわからなかったが夕鈴は他に言葉を思いつかなかった。
眼鏡をかけた端正な青年は一礼した。
「文官としてはこの国で一番だろうな。官僚登用試験を一位で通過した実力の持ち主でもある。何か困ったことがあったら何でも聞くといい」
珀黎翔の言葉に青年はわずかに口元をゆがめた。
「はじめてお目にかかります、王女殿下」
そう言って李順は両手を組んで王族に対する礼をとった。丁寧な口調なのにどこか冷ややかなまなざしを感じる。だがそれをもう一度確かめようとする前に李順の表情はは眼鏡で読み取れなくなっていた。
「王女殿下におかれましては市井にあられながらご無事に王宮にお戻りになられまことにおめでとうございます」
「あの…本当にそれは違うんです!」
はじめてこの件で話をできそうな相手を見つけて夕鈴は声を震わせた。一度感じた冷ややかな気配が眼鏡に隠されたためだったのかもしれないが、珀黎翔よりは話しやすそうに感じられた。それに珀黎翔が困ったことがあったらなんでも聞くといいと言った相手だ。
「私…王女様じゃないわ。絶対に違うと思います」
「…」
李順は黙ったまま夕鈴を見つめている。
「私は王女ではないんです。ですから李順さん、そう呼ばないでください。王女様と呼ばれていいような立場じゃないんです、私」
「それはまた…」
そう言い、李順ははかるような視線を夕鈴に向けた。夕鈴は言葉を重ねた。
「何かの間違いなんです。調べてくださったらすぐわかることです。李順さん、それをどうか調べてください。そして私を…下町に返して」
一瞬李順は夕鈴を抱き寄せる珀黎翔と視線を交わしたような気がした。だがそのまま何も口にせず頭を下げた。
「またお目にかかれることもありましょう。お言葉を賜りましたし、王女殿下がお望みでいらっしゃるので私の力が及ぶ限り王女殿下の今回の件については調べさせていただきます」
ほっとして夕鈴は珀黎翔にすがりついていた手の力が緩んだ。
「ありがとう…ございます」
夕鈴はふるえる声でささやいた。
「本当に…」
夕鈴を見つめ李順はうなずいた。最初に李順に感じたあの冷ややかな気配はいつの間にかなくなっていた。
「それから王女殿下のご希望でいらっしゃいますので他に人のいない場所では夕鈴殿と呼ばせていただきます。…後宮は男子禁制の場所でございますれば、私はこの場にて失礼いたします」
「では李順、また後で王宮で」
そう言いおくと珀黎翔は夕鈴を傍らに引き寄せたまま歩き出したのだった。
後宮の入口では幾分年長の女性が背後に女官たちを付き従えて待ち構えていた。
「陛下、直接のお運びまことにありがとうございます」
「待たせたな、女官長」
珀黎翔は軽くうなずいた。
「あまりにお越しが遅いので今女官を迎えにやらせようかと思っておりましたところです」
珀黎翔はその言葉にほらねといった表情で夕鈴を見下ろした。その笑顔は夕鈴を安心させるものだった。それから珀黎翔は夕鈴を抱き寄せたまま女官長へと視線を向けた。
「それは心配をかけた。…彼女が夕鈴だ。居心地良く過ごせるよう心してやってほしい。私にとっては唯一の妹…大切な娘だ」
「…ではそのように取りはからいましょう。ご心配には及びません」
女官長はにこやかに答えた。
「ではどうぞ、王女殿下。ご即位前ですので王女殿下とお呼びすることをお許しください」
「あの…!私は…」
王女とは呼ばれたくなかった。だが珀黎翔がふと夕鈴の手を握りしめる。
「…陛下…」
「我が妹はなかなかに遠慮深いが…王女であることに違いはない。丁重に頼むぞ」
「それが王陛下のお言葉でございますし後宮の女官一同心してお仕えいたします」
女官長が引き連れた女官を代表するように答える。うなずいて珀黎翔は手を離した。
「…陛下…あの…」
心細さのあまり思わず声が出てしまった。珀黎翔は夕鈴へと視線を移すとにっこりと微笑んだ。そのほほえみは先程二人きりで回廊を歩いていた時に見せたような狼陛下というよりは小犬陛下のように見える等身大の青年の笑顔だった。
「夜には一度ご機嫌伺いに居間へといこう。夕鈴、後宮の女官たちはちゃんとした者ばかり。安心していい。少し休んで疲れを癒やすように」
「…はい」
そう夕鈴が答えると珀黎翔は身を翻し、回廊を歩き去っていったのだった。

     ******

ここは白陽国王宮の王の居間から少し離れた場所にある貴賓室だった。珀黎翔の王位継承権に対して異議が申し立てられ、その書類の信憑性を確かめる間、王位を退くようにとの要求が出され、珀黎翔はその要求を一時的に受け入れることにしたのである。この国において王であるということそして王家の血を引いているということは絶対なのだが同時にその絶対性が揺らいだときに王座に固執することが更なる反応を呼ぶだろうと判断したのだった。
「陛下、李順です」
執務そのものは宰相が代行しているとはいえ、まったく王としての仕事から解放されたわけではない。それどころか決済はしないにしても最後の決済のために宰相にアドバイスするためには国内の状況については十分に理解し用意された資料に目を通しておかなければならない。
珀黎翔が山と詰まれた書類と取り組んでいたところに部屋の外からひそやかな来訪を告げる声がした。
「いいぞ。入れ」
そう答えて珀黎翔は筆をおいた。
入ってきたのは李順だった。今回の件が持ち上がって以来多忙という点では珀黎翔といい勝負の李順であるが、その表情にはまだ疲労しきったというあきらめの色は見えなかった。
一目机の上を見て、李順は小さくため息をつく。
「相変わらずの多忙ですね、陛下も。…すべての片がついたら陛下の仕事で積み残している部分を一気に片付けることになるんですが。早くこの継承問題が片付いてくれないと本来の執務がえらいことになりそうです」
「まあそうだな」
珀黎翔は苦笑して目の前の書類を押しやった。
「これが私が廃嫡ということになり、この仕事の山を彼女に全部押し付けることになったらさすがに彼女には気の毒だな」
「…その件ですが」
李順は表情を改めた。
「ここに浩大を呼んでいただけますか?」
「いいだろう。…浩大」
声の大きさもトーンも変わらなかった。外で盗み聞きしているものがいたとしても何も異変は感じられなかっただろう。だがその珀黎翔の言葉が終わるか終わらないうちに、珀黎翔と李順の二人しかいなかった部屋に不意に人が現れた。
目立たない色の服を身にまとった浩大の姿だった。
「李順が来たからそろそろ呼ばれるかなって思ってたよ」
黒く大きな瞳を瞬いて浩大はつぶらな瞳を珀黎翔と李順へ等分に向けた。
「まあ座るがいい」
その珀黎翔の言葉にしかし李順は警戒心をあらわにしたまま窓際の下の床に座り込んだ浩大へと視線を向けた。
「このあたりに人の気配は…?」
「あるよ」
あっさりと浩大は答えた。
「でも陛下が隠密の気配も感じ取るってわかっているからね。それに…どちらかといえば王宮の内部を警備している隠密は陛下よりだ。…それほど近づいてくる気配はない」
近づいてくれば俺にはわかるから安心していいよと浩大は付け加えた。李順はうなずいた。
「そうですか…ではしばらく秘密の話もできるというところですね」
「そうだよ」
浩大はうなずいた。
そして李順と浩大はそろって珀黎翔へと視線を向けた。最初に口を開いたのは李順だった。
「ではまずは…陛下がご覧になった夕鈴殿の様子についてどうご判断になられたのか伺わせていただけますでしょうか」
「そうだな…」
珀黎翔は机の上で両手を組んだ。李順がそう聞いてくるだろうことはあらかじめ予測していた。
「彼女は…偽者か本物かはわからないが…少なくとも今回の件の黒幕とはつながっていないのだろうと思う。偽者だとすれば知らずに利用されている市井の娘。そして本物だとしても私に怨みを抱いているということはない本物の妹…ということになるのではないかと見たが…お前の方の判断はどうだ、李順」
話を振られて李順は眼鏡を押し上げた。
「そうですね…」
珀黎翔の言葉に李順はゆっくりと答えた。
「私も陛下と同様の考えです。…彼女はこの場所に連れてこられたことにおびえていましたし、さらにこの事態を彼女なりにどうにかしたいと願っていた。元の下町に帰るために自分の身元調査をしてくれと申し出た」
「そうだったな…」
珀黎翔は夕鈴がそう言った時の声を思い出した。
「よほどの演技者でなければああは振舞えないでしょう。私が調査すればかならず真実を突き止める。…どちらかといえば調査するなと命じれば私は表立って動けなくなるのに夕鈴殿は自分の素性を確かめてほしいと調査を許可してくれました。彼女はおそらく…今回の件で捨て駒として使われている本当に普通の少女なのだろうと思います」
怯えていたことは間違いない。あの最初に見た時にたとえ夕鈴が暗殺者だったとしても手をさしのべずにはいられないほど美しい衣装に身を包まれた夕鈴は頼りなげで助けを求めたまなざしで立ちすくんでいた。
「そうだな。…もしも彼女の素性がばれ、王の血族を騙って王宮に乗り込んできたとなれば大罪だ。処刑は免れないが彼女が大切にしている家族もまた同様の憂き目にあうことになる。…なんとか助けてやりたいものだな」
珀黎翔の言葉に李順はうなずいた。
「その件についてはまったく同意見ではありますが、まだ彼女が送り込まれてきた敵だという可能性は残っています。…浩大、あなたはどう見ました?」
李順に話題を振られて浩大は黒く大きな目を瞬いた。
「夕鈴ちゃん?」
その言い方がすでに夕鈴を敵とはみなしていないのだろうと珀黎翔と李順に伝えるものだったが李順はさらに追求した。
「そうです。あなたはどう見ました?。陛下のご命令でおそらくもう彼女の様子については確認ずみでしょう?」
「まあね」
浩大はちらりと窓の外へと目を送った。それが珀黎翔を見張っている隠密の気配を探っているのだとわかって李順は少し声を落とした。
「彼女は送り込まれてきた隠密…ではないですか?」
「隠密じゃないな」
視線を戻しきっぱりと浩大は答えた。
「夕鈴ちゃんの体にはどこにも鍛錬した気配はない。もちろん男をたらしこんでとりこにするようなタイプの女も隠密にはいるけれど、でもそういう手練もないようだ。もしも鍛えていたら…あの最初に王宮の回廊に上がってきたときにどうしても反応したはずなんだけれどね」
あれだけ殺気を向けられていたんだからねと浩大は付け加えた。
「…?。殺気?どういうことですか?」
その最初の場面に李順は同席していなかった。いぶかしげな視線を浩大と珀黎翔に向ける。説明したのは浩大だった。
「つまり…言っただろ。この国は確かに陛下の敵は多いけれどさ。陛下に心酔しているやつらもたっぷりいるんだよ」
「それはもちろん知っていますが?」
何をいまさら言っているのだろうといった様子で李順は答えた。
「つまり…陛下の治世がぽっと現れた夕鈴ちゃんに取って代わられることを恐れて遠距離から夕鈴ちゃんに向かって弓を射ようとしていたやつらがいたのさ」
びしばしと殺気が突き刺さってきたからね。あれに気づかないのは女官や侍官だけだろと浩大は笑みを浮かべた。
「何ですって!」
さすがにそれは予想していなかった様子で李順は言葉を失った。
「それは…夕鈴殿が本物だったら死罪が相応の重罪ですよ」
疑うように李順がつぶやいた。
「王族の…しかも王位継承権では陛下の次、現在の廃嫡の書類が出てきている状況では間違いなく時期王陛下になるだろう夕鈴殿に矢を向けるなど」
浩大は軽く肩をすくめた。
「まあ自分が処刑されても陛下が王位にあればいいって陛下が思われているってことだろ。相手は軍部の奴らだと思うからね。あれだけ離れた場所から矢を射ようとするならね。よかったじゃん陛下。思った以上に味方も多くて、命がけで慕われていてさ」
「そういう盲信は求めておらん」
珀黎翔は肩をすくめた。
「ましてそのために罪もない少女を殺そうなど受け入れるわけにはいかんな」
浩大はにっこりとほほえんだ。
「いい人だよな陛下は。狼陛下だの冷酷非情だの言われているわりにね。まあだから…陛下は夕鈴ちゃんのために盾になったんだよな」
「盾になった?」
李順はわずかに眉をひそめた。
「そ」
浩大は口元に笑みを浮かべて珀黎翔へと視線を向ける。
「俺もどうしようかと思っていたら陛下が矢先に立って体で盾になって夕鈴ちゃんを連れて行ったからね。そいつも矢を射ることができなかったんだよ」
まあ少し頭がある奴だったらこれで終わるんじゃないのと浩大は付け加えた。




「天に星、地に花、人に愛」再録集60に再録2014,1,26東京コミックシティ発行
珀黎翔×汀夕鈴
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