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「無明の月」初期再録集3に再録(再版は2013,12,29の冬コミ予定)
珀黎翔×汀夕鈴
視察に船で出かけた珀黎翔と夕鈴
しかしその船が賊に襲われ
大河へ落ちた夕鈴を追って珀黎翔は…

無明の月
   *****

頬をすぎていく風が心地よい。夕鈴は船の舷側からわずかに身を乗り出した。
「夕鈴、あんまり乗り出すと危ないよ?」
心配そうにいう珀黎翔の言葉に夕鈴はわずかに甲板の方へ体を戻したが、目はずっと船の舷側から見える光景に釘付けになっていた。
「広いですね、陛下」
驚きを隠さない声で夕鈴はささやく。吹き付ける風に夕鈴はわずかに髪を押さえたが、妃の旅装を吹きなぶっていく川の風が夕鈴の服の裾を乱した。
広い甲板には夕鈴と珀黎翔の二人だけだ。王とその最愛の妃との語らいを邪魔する者はいない。この船に乗り込んでいる兵は皆、珀黎翔と夕鈴を護衛することが第一の目的だった。
見渡す向こう側はわずかに靄って見える。向こう岸は見えなくはないが、到底泳いでわたれるような河幅ではない。さすが大陸の中をとうとうと流れる大河である。曲がりくねりながら遠くへと去っていくその河の行方は、到底見定めることはできない。
「夕鈴は初めて大河を見たんだっけ」
あまり熱心に河を見ていたためか、珀黎翔がそう尋ねてきた。
「はい」
夕鈴は素直にうなずく。
「陛下に連れられて白陽国内の川は見たことがありますけれどこんな大河は初めてです」
夕鈴は傍らに立つ珀黎翔へ視線を向けた。
「そうだな。確かにこの河は見事なものだよ。白陽国にはない大河だ。これほどの河を見たのは僕も戦場で何回か出陣した時ぐらいだね」
夕鈴の問いに穏やかな口調で答えたのは珀黎翔である。いつもの王の執務服を身にまとい腰には実戦的な長剣を携えている。
王の立場にある者がこのような長剣を身に携えているのは珍しいことだが、それが珀黎翔となればすでにその姿は王に仕える者たちにとっては見慣れたものだ。
白陽国の若き王珀黎翔は、前王から代替わりする際麻のように乱れた国内を建て直し、汚職官僚を追放し、断固として国内改革を押し進めた名君である。自ら剣をとって戦うその姿は戦場の鬼神、冷酷非情と恐れられたが、国内は瞬く間に平定されるに至ったのだった。
その珀黎翔のたった一人の妃が汀夕鈴である。しかしながら夕鈴は本物のお妃ではない。珀黎翔の側近李順に雇われた臨時花嫁である。王に外戚ができることを嫌った珀黎翔と国内政策に力を注ぎたい李順によって考えられたその策はある意味効を奏したが、予想外の事態をももたらした。臨時花嫁である夕鈴と過ごすうちに夕鈴は珀黎翔を、そして珀黎翔は夕鈴を互いに好ましく思うようになっていったのである。
そして狼陛下の二つ名を持つほどに恐れられている珀黎翔がその実小犬のような心を隠し持っていることは夕鈴の知る国家機密の一つだった。
「白陽国をでてもう二日ですよね」
夕鈴はずっと眺めていた川面から傍らに立つ珀黎翔へと視線を戻した。
「船酔いは大丈夫、夕鈴」
ふたりっきりなので珀黎翔の口調は小犬陛下のものだ。
「ええ。大丈夫です、陛下。最初は本当に揺れてどうしようかと思いましたけれど。体って慣れるものなんですね」
「船を下りたら今度は大地が揺れているように感じられるよ。それもまた慣れるんだけれどね。揺れていないのに揺れているように感じられるのが、船酔いするとなかなか悔しい気持ちになるよ。船に乗っていないのにってね」
珀黎翔はにこにこと答えた。
「今頃李順さんは王宮で書類の山と格闘しているんでしょうね。帰ったら怒りそうです」
夕鈴の言葉に珀黎翔はうなずく。
「でもまあ、いつもなら僕がその山を片づけているし、今回はがんばってもらおう。こちらも花見遊山じゃないからな」
「そうですよね」
夕鈴は幾分緊張した面もちでつぶやいた。
珀黎翔が王宮を空けてこんな遠方にやってきたのはもちろん理由がある。白陽国は大変広い領土でありその領土は他国と国境を接しているところもあるし原野と国境も明らかにならないままいつの間にか人里離れていくという場所もある。国内には豊かな川が流れているがこれ程の大河は白陽国と一部を接しているだけだ。この大河は遥か崑崙の山からから流れだし幾つもの国と続きながら海へと去っていく。ある意味交易の要の一つである。地上を行くよりもこの川に船を出し交易をした方が多くの物資を運べ、商人にとっても利益の多い事のだがその割に陸地を行く者が多いのには訳がある。何しろ対岸が見えない程の大河である。この川を無事に渡りきるだけの船の設備を持つものはやはり王族クラスとなる。そして必ずしもこの川は安全ではないのだ。海賊が出て商人の積荷を襲ったといううわさも後を絶たない。各街道はそれぞれの国が十分に安全を確保しているし、国と国とをつなぐ街道を行く商人は隊列を組んで安全に配慮する。
即位後のごたごたを片付けた珀黎翔は内政に力を尽くし、諸外国とは互いに内政不干渉を貫いてきた。だが朝貢国に視察に行くのも国王の仕事の一つである。いつもなら陸路で行くこの視察を今回は船を利用していくことになったのは途中の街道筋の国の一つが不安定になっていることを考慮したためだった。
「こんな大きな川もちろん見たことありませんけれど、船も見たことがなくてびっくりしました。あんまり揺れないんですね」
夕鈴の言葉に珀黎翔はにっこりと笑った。
「そうだね。これが海だとずっと揺れているんだけれどもやはり川は揺れが穏やかで良いな。船旅なので陸路を行くよりも時間がかかるけれど明日には着く頃あいだろう。今回は僕の仕事につき合わせてごめんね」
「何をおっしゃっているんですか、陛下」
夕鈴は首を振った。
「陛下のお側にいるのは当然のことですし、何よりそれが仕事なんですから陛下はバイトに気を使わなくていいんですよ」
「そう言ってもらうとちょっと胸の痛みが収まるな」
珀黎翔の言葉が終わるのを待ちかねたように背後から女官の声が聞こえてきた。
「おくつろぎのところ失礼いたします。お妃様におかれましてはそろそろ船内にお入りいただければ」
「そうだな。部屋で休んでおいで」
珀黎翔の気配がゆっくりと変わっていく。小犬陛下から狼陛下へ。
「何か報告があるのか。船長」
その珀黎翔の言葉に夕鈴は女官の後に船長が控えていることに気が付いた。どうやら直接珀黎翔と夕鈴に声をかけることができず、夕鈴付きの女官に声をかけてもらったようだ。
「陛下、少々気になることが。先程からこの船を追いかけてきている船がございます」
「……」
珀黎翔の表情が引き締まった。
「どの国の船なのか見極めはつくか」
「それがこちらからの合図に答えません」
「この船の装備ならなまじな賊は向かっては来られないだろうが目的がはっきりしないのはまずいな」
「ご賢察の通りです」
「航海長を呼べ」
即座に判断を下し、足早に歩き去っていく珀黎翔を見送り、夕鈴は小さくため息をついた。
「夕鈴様」
夕鈴つきの女官がそのため息を気づかって声をかけてくる。
「いいえなんでもないわ。部屋に戻りましょう」
そう女官に答えて夕鈴は甲板から部屋へ向かおうと歩き出した。その時不意に腹に響くような音が聞こえた。
同時に船が揺れる。よろめいて夕鈴は船の外壁に手をついて身を支えた。
「何でございましょう!」
女官が上ずった声を上げる。
「何かしらあの声」
夕鈴はそうつぶやいた。低いうなり声のような、叫び声のような物音が響いてくる。
「お妃様!」
叫び声とともに武官が走りこんできた。
「敵襲です!」
夕鈴は目を見開いた。
「敵ですって!」
女官がかすれた悲鳴を上げる。
「陛下のご判断のおかげをもちまして、こちらにはかろうじて迎え撃つ用意ができました。陛下はお妃様に部屋にお戻りになるようにと」
白陽国の王が乗っているとわかっているはずなのにあえてこの船を襲ってきたのだ。狙いは珀黎翔の命なのか。夕鈴は身を震わせた。めまいがする。よろめいて夕鈴はそれでも気を強く取り直した。珀黎翔はすでに戦いに向かっているはずだ。自分がここで倒れるわけにはいかない。
「お部屋へお戻りください。大丈夫です。すぐにも陛下がこの敵をうち果してしまわれるでしょう。ですが敵の目的がお妃様だったら大変です。女官殿、お妃様をお部屋へ」
武官は気がせく様子で背後を振り返った。
「誰か護衛を、いや私がお送りいたします。お早く部屋へ」
「わかったよ。ここは俺に任せてあんたは陛下のところに戻ってくれ」
予想もしない声が聞こえた。まだ若い子供といってもおかしくない声だ。傍らを振り返り夕鈴はいつの間にか側に浩大が立っていることに気が付いた。
「…浩大!」
「ここのことは引き受けた。俺はお妃つきを命じられている。あんたは陛下の元へ」
「心得た。よろしくお願いする」
見覚えのない姿だが夕鈴がその名を呼んだこと。さらには女官も浩大に見覚えがある様子だったため、武官はうなずいて元来た方角へ駆け戻っていった。
「女官は先に部屋に。途中の道が安全かちゃんと見てくれ」
浩大の指示に女官もうなずいて先に走り去る。
「まさかこの大河で攻撃されるとは陛下も思っていなかったみたいだけどね」
二人きりになったので口調が幾分元に戻った。そう言いながら浩大は夕鈴の手をとって甲板を船の出入口に向かって歩き出した。
「陛下は、ご無事なの!」
夕鈴は浩大に手を取られながらそうささやいた。
「あの人は滅多なことじゃ遅れをとらないよ。戦場の鬼神って呼ばれるのは伊達じゃないんだよ。やっぱり戦い慣れない河の戦闘ってことはあるかもしれないけれどね」
船旅用に多少身軽とはいえ妃の正装である。ひらひらと服の裾をなびかせながら夕鈴は船の甲板を走ろうとしたが、再び船に鈍い衝撃がおそってきた。よろめく。
「お妃ちゃん!」
押し殺したささやきとともに浩大が夕鈴の手を離す。その手にまるで魔法のように小刀が現れた。日の光をはじいてその刃が白く光った。
「浩大…!」
夕鈴は思わず悲鳴を上げた。
信じられない。船の縁を乗り越えて黒い服を着た男たちが現れたのだ。夕鈴に向かって走り寄ってくる。
「こっちが目的か。お妃ちゃん、先へ行って」
浩大の言葉とともに、夕鈴はよろめきながら走り出した。こういう場面に遭遇したのは初めてではない。
わかっていることは一つある。戦っている珀黎翔や浩大の邪魔にならないように夕鈴は逃げなければならないのだ。それは何かにつけ珀黎翔に言われていること。
「邪魔をするな!」
脅しつけるような男の怒鳴り声。だがそれに答える浩大の口調は軽い。
「それはこっちのセリフだよ」
高い金属音がした。
夕鈴はもう甲板の端まで来ていたが思わず振り返る。浩大が襲いかかってきた賊の剣を受け止めたところだった。白く小刀の刃がきらめく。その刹那またもや船が大きく揺れた。ぐらりと夕鈴の上半身が船縁の外へ傾いた。
喉から意識せぬ悲鳴が上がった。同時に夕鈴の方に気を向けながら戦っていたのだろう浩大の叫びが上がる。
「お妃ちゃん!」
走り寄ってくる浩大の姿は目に入らなかった。
「夕鈴…!」
聞き慣れた珀黎翔の叫び。片手に剣を抜き放ったまま甲板へ、上の階から飛びおりてきた珀黎翔の姿が見えた。
「陛下!」
だが珀黎翔へ差し出した夕鈴の手は届かなかった。夕鈴の体は完全に船の外へ投げ出された。
甲板が遠くなる。落ちるのだとどこか意識の奥底で理解していた。もうこれで落ちる。夕鈴は泳げない。死ぬのだとどこかで理解していた。青い空が視界に入る。
目に映るのは空と船の縁だけだったはずなのに不意に人の姿がそこに見えた。
「夕鈴…!」
声をあげたのは珀黎翔だった。もう夕鈴の手は届かない。だが珀黎翔は諦めなかった。一瞬のためらいもなく珀黎翔は剣を手にしたまま船の縁から身を躍らせた。
夕鈴を追って手を伸ばす。すごく長い時間がかかったように思えたがすべては一瞬だった。珀黎翔の手が夕鈴の手に届き身体全体を抱き抱える。もう片方の手にしていた剣を珀黎翔は腰に下げた鞘へ一動作で納めた。そして全身が水面にたたきつけられた。
その刹那悲鳴を上げた気がしたが声さえも出なかった。全身を包みこむ水の冷たさ。
呼吸ができない。耳鳴りがする。目の前が暗くなる。息を吸おうと暴れる体を抱き締められて一息吹き込まれた気がした。だがそれで夕鈴の意識は途絶えた。

   ********

「陛下の船が襲われたということは事実ですか」
最初にそう訪ねたのは氾史晴だった。白陽国王宮の執務室で呼び出された主立った貴族たちは言葉もなく李順の説明を聞いていた。
「残念ながら事実です」
李順は沈痛な面持ちでうなずいた。
この場には白陽国の官僚たちも何人かは出席している。だが貴族たちで考慮すべきなのは軍を統率する柳大臣であり文官たちに影響力がある氾史晴だった。考慮すべきという点ではもちろん実務を担当する官僚たちは十分に考慮しなければならない。だがここで問題になるのは次に自分が発言する内容によるものであることを李順は十分にわかっていた。
「陛下のお力を持って賊の襲撃はほぼ退けることができましたが、その過程において陛下とお妃様のお二人が船から落ち現在のところ捜索中という知らせを受けております」
そう問題なるのはここだった。この国は良くも悪くも珀黎翔あっての国。珀黎翔の強靱な精神力、そして物事を推し進める意思の強さが白陽国を支えているのだ。もしも珀黎翔が亡くなったとなればこの国が再び乱れに乱れることは想像するに難くない。
それは行方不明でも同じことである。珀黎翔が不在、その影響力は計り知れない。
ここで氾史晴と柳大臣がどう出るか。もちろんいざという時に備えて李順も内々に用意はあった。だがもしもこの影響力がある両大臣が珀黎翔に反旗を翻そうとしたならばさしもの李順もたった一人では荷が重いというものだった。
「この情報はすべてを王宮のもの皆に伝える必要はないと思いますよ」
氾史晴はゆっくりと口を開いた。
「陛下は行方不明にはなられたかもしれませんが、亡くなられたというわけではない。ましてあの辺り白陽国の敵国というわけではない。陛下ならば程なくご無事にお戻りになられるでしょう。こちらからも兵を出して探索の手伝いをさせてもよい」
「私も王宮内にこの情報を流す必要はないと考える」
柳大臣も同じく考えこみながらそう氾史晴の言葉に賛成を表した。
「陛下がそう易々と賊にやられるとは思われない。ここは陛下の留守を皆で心を一つに守ることが肝要かと思う。最も兵を出すのは少し考えた方が良いかもしれぬ。何かあったと他国にさとられるのは決して得策ではない。どうしたものかな氾大臣)
「確かにおっしゃる通りでしょう」
氾史晴の言葉が後押しした。珀黎翔の行方不明については伏せておくことで両大臣の意見が一致する。
「では官僚の方々は陛下が決裁して行かれた様々な案件をそのまま進めてください。また陛下の件につきましては続報が入ったところで両大臣にはお知らせしたいと思います。おそらく陛下はそのまま船を進めるものと思われますので通常の予定帰国時期まではこのまま陛下の不在を伏せておくことが可能でしょう。この情報につきましては完全な情報統制を行っております。もしも陛下の不在につきまして宮中に話が流れるとすれば、この場に居合わせました皆様のどなたかか口を滑らせたということになります。皆様十分にお気をつけください」
「言われるまでもない」
柳大臣は肩をそびやかした。
「これはこの国の一大事である。少なくとも当家に連なる者は軽々しくこのような重大な情報を口にすることはない」
「ご安心を、李順殿」
優しい笑顔で氾史晴は李順にうけあった。
「当家もそのような不心得者はおりませんよ。陛下のお戻りを心から願っております。もちろんお妃様のご無事のお帰りをも祈っております」
「そのようにおこころざしいただいたことは陛下か無事に戻りました時に必ずお伝えいたします」
李順の言葉が最後の合図になった。官僚たちは一言もしゃべらず黙ったまま退室していった。
一人きりになって李順は大きく息を吐いた。氾史晴と柳大臣の出方が今回の一つの山場だった。だが両大臣ともこの珀黎翔の行方不明という事態に静観する構えだ。一つの大きな危機を乗り越えたと李順は理解していた。まさかこんなことになるとは夢にも思っていなかった。
珀黎翔の乗った船が賊に襲われたということは何らかの内部情報が漏れたということだった。その秘密を漏らした者が誰かというあたりも李順は突き止めなければならなかったが少なくとも両大臣は現在の白陽国の平和を己の利権よりも優先した。となれば珀黎翔の敵は両大臣ではない。珀黎翔を王の座から追い落としたいとそう願う貴族は他にもいるだろう。だがその潜在的な敵が両大臣ではなかったことに李順はほっとしていた。
「本当にこんなことになるんでしたらもっと陛下に仕事をしてから出かけてもらうんでした」
そうつぶやいて李順は気を取り直した。本当のところは珀黎翔と夕鈴の探索に兵士を出したいところである。だがそれは両大臣の言葉によって実現しなかった。珀黎翔の敵ではないが味方でもない。自分の力で無事この難局を切り抜けて戻ってくるならば変わらず王として遇しよう。だが戻ってこられないならばこの国の内政は我らのものだ。そう柳大臣は暗に匂わせたのである。氾家もまたその言葉を支持した。珀黎翔が戻らなければこの国の支配は両大臣のもとに行うことになる。
「早く戻ってきていただきたいものです」
そうつぶやいて李順は歩き出したのだった。



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珀黎翔×汀夕鈴

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